Petit Charat

201410.dat


 投稿者:   投稿日:2014/10/11(土)13時04分28秒
ここに愚者と智者のふたりがいたと想定しよう。

愚者は、例えばここでオレンジを一個買う。
それを食べて、そのおいしさを味わったとしよう。

次の日も二個 三個四個と買って飽きるまで食べる。
そして、オレンジに飽きる。もはやおいしくはない。
次はリンゴにしよう。
彼はリンゴを食べる。
飽きるまで食べる。
次はバナナだ。
バナナで同じことを繰り返す。
ここで、智者だったらどういうプロセスを辿るのかね。

その人は、オレンジに飽きたとき、「なぜ私はオレンジに飽きたんだろう?」と考える。
そして、「私は今度は、リンゴを食べたいと思っているけど、ひょっとしたらリンゴにも飽きるんじゃないか。」っという考えに至るだろうね。
そして、リンゴに挑戦するとき、 「その時の心の変化をできるだけ客観的に見ていこうじゃないか。」と決心する。そして、リンゴを食べていきながら、個数を増やしていきながら、心の変化を理解していく。
そうするとね、オレンジとリンゴ、これくらいで飽きる経験はすんでしまうわけだ。飽きる経験がすんでしまうから、次のバナナまでいかない。いく必要がないんだ。
オレンジやリンゴがね、車に変わっても同じだね。
例えばブルーバード、例えばスカイライン、例えばシビック。
初めにブルーバードに乗っていてね、飽きてスカイラインにする。
次はシビックにしてみる。
これと、オレンジ、リンゴ、バナナのプロセスは全く同じだ。異性について考えても同じだよ。
A子さん、B子さん、C子さんと心が移っていくプロセス、これも全く同じだ。 

私達は、だから、もしオレンジで心の動きを理解したならば、車に対しても異性に対しても、惑わされることはないだろう。その時、自ずと悟りが訪れます。
急に、悟り、なんて言葉がでてきてびっくりしたかな。
オレンジや車と悟りが、なにやらつり合わないような気がするかもしれない。
しかし、悟りとは心の動き、あるいは真我がどのようにして闇の中に入っていくかをね、
客観的に見て理解できる状態のことなんだ。いいですか。これが悟りのプロセスだ。