ここに愚者と智者のふたりがいたと想定しよう。 愚者は、例えばここでオレンジを一個買う。 それを食べて、そのおいしさを味わったとしよう。 次の日も二個 三個四個と買って飽きるまで食べる。 そして、オレンジに飽きる。もはやおいしくはない。 次はリンゴにしよう。 彼はリンゴを食べる。 飽きるまで食べる。 次はバナナだ。 バナナで同じことを繰り返す。 ここで、智者だったらどういうプロセスを辿るのかね。 その人は、オレンジに飽きたとき、「なぜ私はオレンジに飽きたんだろう?」と考える。 そして、「私は今度は、リンゴを食べたいと思っているけど、ひょっとしたらリンゴにも飽きるんじゃないか。」っという考えに至るだろうね。 そして、リンゴに挑戦するとき、 「その時の心の変化をできるだけ客観的に見ていこうじゃないか。」と決心する。そして、リンゴを食べていきながら、個数を増やしていきながら、心の変化を理解していく。 そうするとね、オレンジとリンゴ、これくらいで飽きる経験はすんでしまうわけだ。飽きる経験がすんでしまうから、次のバナナまでいかない。いく必要がないんだ。 オレンジやリンゴがね、車に変わっても同じだね。 例えばブルーバード、例えばスカイライン、例えばシビック。 初めにブルーバードに乗っていてね、飽きてスカイラインにする。 次はシビックにしてみる。 これと、オレンジ、リンゴ、バナナのプロセスは全く同じだ。異性について考えても同じだよ。 A子さん、B子さん、C子さんと心が移っていくプロセス、これも全く同じだ。 私達は、だから、もしオレンジで心の動きを理解したならば、車に対しても異性に対しても、惑わされることはないだろう。その時、自ずと悟りが訪れます。 急に、悟り、なんて言葉がでてきてびっくりしたかな。 オレンジや車と悟りが、なにやらつり合わないような気がするかもしれない。 しかし、悟りとは心の動き、あるいは真我がどのようにして闇の中に入っていくかをね、 客観的に見て理解できる状態のことなんだ。いいですか。これが悟りのプロセスだ。